荏開津広
- 坂本龍一“FRONT LINE” (1981)
- New Order “ The Village” (1983)
- 細野晴臣 “薔薇と野獣” (1973)
- Dr.Octagon “Blue Flower” (1996)
- 郷ひろみ “花とみつばち” (1974)
花がアート・ワークに使われているものですぐに思い出すのは、坂本龍一が80年代に唐突にリリースした7インチ・シングル”Front Line”のジャケットです。赤い花の色も背景の青も、写真のカラーコピーを何回も繰り返したように潰れています。花を使った有名なスリーヴ・アートといえば、ローリング・ストーンズのものなど幾つか思い浮かびますが、坂本のシングルの2年後にリリースされたニューオーダーの2枚目のアルバムにして評価の高い” Power, Corruption, and Lies(邦題 権力の美学)” はそのうちの代表的な1枚でしょうか。
このアルバムのデザインをしたピーター・サヴィルによると、タイトルからマキャベリズムを連想した彼は最初“暗い王子”の肖像画を探したそうですが、結局この絵を使ったそうです。このアルバムの”The Village”という曲の歌詞には花も出てきます。小さな幸せについての歌のようですが、リリース年月や”village”に定冠詞がついていることを考えると、この“村”は1960年代のイギリスのディストピアSFドラマ、“ザ・プリズナーNo.6”に出てくる村だと考えるのが妥当です。花は皮肉な小道具です。
こうしたことは、それ以前、つまり1960年代の理想主義的な思いがこめられた花のイメージの氾濫の反動かもしれません。それよりもっともっと前に戻り、音楽や詩、芸術と花、というとドイツ・ロマン主義の作家、ノヴァリスの小説『青い花』がそうした考えの源としてもちろん思い浮かびます。ロックとロマン主義の関係は批評家/小説家のスーザン・ソンタグが言及していることもあり、ここであげておきます。主人公が夢に見る“青い花”は詩的な霊感を象徴する存在です。もっとも、この小説、階級社会に偽善的なのはいただけません。
さて、ヒップホップをオルタナティヴなものへと引き上げたアルバムとして評価されているドクター・オクタゴン『ドクター・オクタネコロジスト』(1996)からのシングルに”Blue Flower”があります。ドクター・オクタゴンは惑星間外科医の名前であり(実はクール・キースというラッパーの別名プロジェクト)、この曲では血まみれの手術の描写のあと“・・・灯りを見よ、青い花が見える・・・!”と連呼されるのですが、ノヴァリスの小説よりも90年代のアメリカのケーブル・テレビで再放送されていた40、50年代の白黒B級恐怖映画を思い起こさせるリリック、サウンド、世界観です。90年代当時既に誰も見向きもしなくなったキッチュな世界に誘い込むためのプロップとしての“青い花”なのでしょう。
安田昌弘
- Simon and Garfunkel “Scarborough Fair/Canticle” (1966)
- Ewan MacColl & P. Seeger “Elfin Knight” (1961)
- Peggy Seeger “The Cambric Shirt” (1957)
- Audrey Coppard “Scarborough Fair(以下「SF」と表記)” (1956)
- Shirley Collins “SF” (1959)
- Martin Carthy “SF” (1965)
- Marianne Faithfull “SF” (1966)
- Bob Dylan “Girl from the North Country” (1963)
- Paul Simon “The Side of a Hill” (1965)
北イングランドやスコットランドで昔から歌い継がれている「スカボローフェア」という歌を集めてみた。「Parsley, sage, rosemary & thyme」という、薬草を列挙するリフレインでよく知られた歌である。恋人たちの関係を「解毒」するシンボルとして薬草が歌い込まれたという。どれも、白や薄紫の可憐な花をつける。
「スカボローフェア」の歌詞が僕らの知っているものになったのは19世紀以降らしいが、似たような歌はそれ以前にもあった1。17世紀前半の記録が残っている「Elfin Knight」の歌詞は、古い英語で判りにくいけど、「縫い目のないシャツを縫え」とか「枯れた井戸でシャツ洗え」とか、無茶を強要するというところが「スカボローフェア」に通底する2。もう少し新しい「The Cambric Shirt」からは、薬草の名前と「そしたらその人は私の本当の恋人になる」という、やはり「スカボローフェア」に歌われている歌詞が聴き取れる。
レコードもラジオもネットもなかったこの時代、歌は、ブロードサイドと呼ばれる歌本として流通していた(そのため、この種の歌をブロードサイド・バラッドと呼ぶ)。売り子は、歌を歌いながら歌本を売った。気の利く売り子なら客に合わせて旋律や歌詞を変えただろうし、客は客でうろ覚えのまま歌い伝えるのだから、あっという間にいくつものバリエーションが生まれてしまう。それを聴きつけた歌本屋が今度はそれで歌本を作るし、そもそもどれが「本物」かなんて判らない。そんなのを気にするのは近代人(つまり僕ら)だけで、当時はどうでも良いことだったのだ。
1950年代以降の「スカボローフェア」を聴き比べると、十年あまりの短いスパンの中で、コード進行や旋律、歌詞、伴奏が定型化していくのが判る。しかし、その時その時の状況に合わせて新しい要素を加える、という精神が無くなってしまったわけではない。例えば、1962年の渡英時に「スカボローフェア」を聴いたボブ・ディランは、「Girl from the North Country」という歌を書いているし、64年にロンドンに活動拠点を移したポール・サイモンは、Martin Carthyを通してこの歌を知るが、それに「The Side of a Hill」という自作の反戦歌を組み込むことで、この歌を世界中に知らしめた。
やっぱり石は転がり続けるんだわ。
岡村詩野
- 松任谷由実「ハルジョオン・ヒメジョオン」(1978年)
- 早川義夫「サルビアの花」(1972年)
- 中島みゆき「ほうせんか」(1978年)
- さだまさし「檸檬」(1978年)
- 伊藤咲子「ひまわり娘」(1974年)
- ベッツィ&クリス「白い色は恋人の色」(1969年)
花、というより植物。フラワーじゃなくボタニカル。昨今、ちょっと洒落たお花屋さんに行けば、いわゆる誰でも知っているバラやチューリップのような馴染みのある花より、昔だったら見過ごされていたような野草や、花とは言えない地味な花を咲かせる雑草のような外来種が店先を飾っています。自然に木々を生い茂らせるイングリッシュ・ガーデンや、小さな透明ガラスの中で箱庭のように栽培するテラリウムの大流行もそうした現代の新しい傾向を象徴する近代園芸の一つでしょう。
それにともない、赤、ピンクが華やかでキレイとされてきた花の色の感覚も変わってきました。青紫、白、黄色……それもよく見たらほんのり色がついている程度の花が可愛いとされるような。かつてなくドライフラワーが好まれるようになっているのも、生き生きとした生花より、乾燥して色味がくすんだ方がシックだしインテリアにも合う、という現代の感覚に基づくものかもしれません。お花屋の店頭をぼんやりと見ていると、花の色とて世につれ、ということに気づかされます。
花の色は移りにけりないたずらに、わが身世にふるながめせしまに
これは百人一首でも知られる有名な小野小町の歌。“美しかった色の花もすっかり色褪せました。長雨を眺めているうちに、いつのまにか私の容姿も衰えてしまいました”というような内容の悲しい歌なのですが、これ、今だったらさしずめ「色褪せた方がお洒落じゃーん」「ドライフラワーの方が好き!」ということになるわけです(残念ながら、人間の女性は現代でもなかなかそういうわけにはいかないですが)。
そうした“花のボタニカル化傾向”をいち早く歌の中で捉えていたのが70年代の日本のニュー・ミュージックではないかと思うのです。例えば、私はユーミンのこの歌でハルジオンやヒメジョオンというとても奥床しく愛らしい花の存在を知りました。ハルジオンもヒメジョオンもお花屋さんではあまり売っていません。道端にいくつも咲いているからです。でも、バラやチューリップよりも好き、という人は恐らくこの曲が作られた当時よりも今の方が増えているはず。また、この植物(果物)を通じて、梶井基次郎は京都の町の風景を、さだまさしはお茶の水の景色を歌にした「檸檬」。これなどは、今や果実そのものへの興味はもとより、その愛らしい白い花そのものを好むガーデナーが多いと聞きます。
かつて、6、70年代のアーティストたちの多くが、失われた風景、去り行く人々への思いを花に託しました。それは、花が儀式に欠かせないものであるという慣例の名残でもあり、ベトナム戦争に端を発する平和祈念の象徴でもあったと思います。そのつつましやかな思いが、華やかなバラやチューリップではなく、道端にそっと咲くハルジオンのような野草に目を向けさせたのではないでしょうか。そして、あれから30年、40年……いみじくもボタニカル・ライフが人気を集める今の時代に、こうした野花が主役になっている。ただ、それは単なる流行の移り変わりなどではなく、今再び、地球のあちこちで何かが失われ、何かが壊れようとしている時代を、我々は無意識のうちに感じとっているからなのかもしれません。
- この辺りについてもっと突き詰めたい人は、19世紀後半にイギリスとスコットランドで収集された、305編のバラッドが収められている、フランシス・ジェームス・チャイルド(Francis James Child)の『English and Scottish Popular Ballads』(全5巻)を参照されたい。和訳も音羽書房鶴見書店から出ている(表紙どうかと思うが)。 ↩
- 「Elfin Knight」の歌詞は、エルフ(鬼)が、道を行く女性に無理難題を吹っかけ、できなかったら誘拐する、と迫るのに対して、女性が逆に無理難題を突きつけて、それができなければついていかないわ、と突っぱねるという内容で、通常は男女のデュエットで歌われる。 ↩